昭和40年8月8日 夜の御理解
今日私は、こういう金光青年という雑誌が毎月送って参ります。それに、ちょっと開いたところに、あまりに日頃私が言っていることがそのままに書いてございますので、本当に改めて有難いとも思い、また、そうでなからなければいかんなあとその自分の(?)強くさせて頂いたようなわけでした。
これを書いておられる、今の金光様の弟様にあたられる方、金光(?)方という方なんですが、私開いてから一番初めに、あの、目に止まって読ませて頂いて、私と同じ考えであるという事が非常に有難いと思ったんです。ちょっとそこのところだけ読んでみましょう。
「御教えに信心をすれば一年一年有難うなって、有り難うなってくると仰せられておりますが、私共の信心内容が一年一年有り難うなっておるかどうか絶えず調べてみる必要があります。 もし、有難くなっておる度合が少ないと言う事でございましたならば、信心の状態になにかどこかに足りないところがあるという事になります。
もし一年一年有り難うなっていないと言う事になりますれば、自分では信心をしていると申しておりましても、信心すれば一年一年有難くなってくると仰る、そうならないと言う事になりますのでは、本当の信心をしていないという事になるのではないか。とこう言うことになるのです」
と書いております。これは私いつも申しております。信心とは有難くならせて頂く稽古だと。教祖もそこを信心をしておれば一年一年有難くなってくると仰るのです。一年一年有難くなっていない、何十年信心致しております。といいながら、有難くなっていないとするならば、これはいよいよ大検討しなければいけない。
5年信心します。10年信心します。20年も30年も信心を続けておりますというてもです、それでは、信心をしておるという事にはならない。
そこで私は一年一年有難うなって来るという事は日々です、ね、有難くならせて頂くという事に焦点を置いていけば、だからいいのです。
そうしていけば、おかげも受けられるし、同時にお徳も受けられるし、同時に有難いという日々の本当の信心生活が出来るのですから。ね。どうでしょうか、その有難うならせて頂くための焦点、有難くならせて頂く為の朝参り。有難くならせて頂くためのお日参りと。また、夕参りということになったらどうでしょう。
有難くならせて頂く為にと思うて、信心に稽古に通うてくるのですから、教えをしっかり頂かなければおられません。そしてその、教えを日常生活に行じ表していかなければいけません。
そういう日々が続けられていく時です、今日も、おかげを頂いて有り難うございましたと、降っても照ってもまたは、あー、降りましても、ね、今日も結構なおかげを頂きまして有り難うございましたと、その、どの位実感的に有り難うございましたというて、えー、例えば最後の御祈念の時にです、神様にお礼が申し上げれるかという事。
どうでしょう、みなさん。本当にそこに焦点を置いておられる方が、ないとするならですね、そこん所に焦点を置かなければならないです。ね、前よりはおかげを頂くけれども、ね、有難くなっていかなければ、信心を頂いておる値打ちはないです。ね。
不思議なんですよ。例えば、教えに本気で例えば出来んながら、取り組ませて頂いておると確かに有り難うなってくるです。ね。ところが教えをこう頂いておっても、そうじゃあろうけれども、実際の言うておる事とおこのうておる事がです、またはお話を頂いている事を行じもなんにもしなかったら、何にも有難いという事はありません。
残りません。神様が与えなさらんです。ね。日々有難くならせて頂く稽古をせにゃあいかんです。果たして今日はどれだけ有難い、一日であったかと言う事。そういう日々が積もり積もってです、一年間で有難いという徳がいただけるのです。ね。一年一年有難くなってくるとこういう。
教祖がはっきり仰っておられるそこんところを、(?)先生は把握しておられるのですね。そして、こういう風に教えておられるのです。ここんところは私も同じ言葉を使って同じような風に私はこのことをこう言う風に言うております。
本当でですねに明日からとは言いません。今晩休ませて頂くだけでもです、休ませて頂きながら有難いなあという、どの位有難いなあと思うかと。
自分の都合の良い時だけが有難いといったような有り難いではです、これは有難いと言う信心の有難いという部類には入りません。
ね。今日一日どれだけ、えー、御教えに沿うた、神様の心に沿うた生活をさせて頂くかということ。本気でその事に取り組んでみなさい。信心とはそれなの。信心生活とはそれなの。そして、日々、今日も有難かったでなければならんのにです、ね、本当になんというですか、それこそ、無為感想とでも申しましょうか、ああ、今日もきつかった、きつかったと、せわしい一日じゃったと、もう腹が立ってしょうがないと言いながら、いわゆる、眠った、眠って毎日を過ごしていくような、私は姿にです、信心が何十年続けられたところでそれは私は同じことではないかと思うのです。ね。
ですから、私共はどういう例えばご無礼お粗末な一日であってもです、せめて、最後の一時間でも二時間でもよいからです、その事をお詫びし抜かせて頂いて、明日は本気で御教えに取り組ませて頂かせて下さいといったような祈り願いを持って、休ませて頂くならです、なんとわなしに、相済まんという信心のいわば境地と申しましょう、いわば、境地とでももうしましょうか、信心でなからなければおられない、そのあいすみませんという謙虚な気持ちで、例えば仕事につく事が出来るでしょう。
とにかく私は工夫してです、今日一日いかに有難く生きていくかとい、いかに有難く生活をさせて頂くかと、ね、いかに有難く御用をさせて頂くかと、そこんところを、私はです、本気で取り組まなければ沢山な信心をさせて頂くならばです、ね、椛目の沢山なご信者さん方がです、果たして今日も一日本気で有り難うならせて頂く為に、この御教えに取り組ませてもらおう、今日はここんところに取り組ませてもらおうと。
ね。それを私は刻々自分の心の中に刻んでいくような信心。こういう信心をさせて頂くならば、間違いなしに、一年一年有難い徳が身についてきてです、有難いという事になって来るでしょう。ところが金光様の御信心を頂いているたくさんの方がです、例えばご本部なら、ご本部参拝をさせて頂いてです、御大祭なら御大祭にお参りさせて頂いてです、本当に、有難そうな方があるじゃろうかと思うてです、本当に有り難いそうな方が本当に皆無というても良いほど、少ないのに驚きますね。
あれで金光様の信心をしておるのだろうかと。いわゆるよそだけではありません。椛目だって同じ事。ね。あれで金光様のご信心をしておるのだろうかと、毎日(?)しながら、それが、例えば出来ていないとするならばです、ね、本気でそこん所に焦点を置きなおさせて頂いてから稽古させてもらにゃならん。
ただ、縋る願う拝む、と言うことだけが信心ではない。それは勿論いいのですけれども、有り難くならせて頂くという事にどういうような、あり方にならせてもろうたら、有り難くなれれるかと、どういうような思い方をしたら、どういうような見方をさせて頂くならば、どういう風に心掛けをさせて頂いたならば、有り難くなるかと、もうここ一つにしぼっていきゃあいいです。
「真にありがたいと思う心、すぐにみがげの始め」と。ね。真に有り難いという心、は、出来る事に焦点を置いていくならです、その有り難いという心におかげがあるというても、いわゆる、おかげ、かげがついてくるんですよ。
ね。実体そのものが有り難くならなければなりません。そこに焦点をおかなければなりません。教祖の神様はすばらしい事を教えておられますですね。信心をすれば一年一年有り難くなって来ると仰る。御自身が有り難くなってみえておられるからそれに、仰っておられることであろうと私は思うのです。去年より今年、今年より来年と、本当に有り難くならせて頂く信心を目指さなければだめ。信心の稽古もそこに焦点を置かなければだめ。私はそう思うですね。
(終わり)